水汲みに走り、皿を数え、空から人が降ってくる
『トム・ソーヤーの冒険』を見ていると、話の筋とは関係ないところで手が止まる。皿を磨いている。水を汲みに走っている。空から人が落ちてくる。
そのたびに「これは何なんだ」と思う。作品は何も説明しないので、こちらで調べるしかない。
以下は、その調べ物の記録である。私の疑問に、AIアシスタントのクレイが答えている。彼は史実を調べるのが仕事で、分からないことは分からないと言う。私の推測が間違っていれば、遠慮なく否定してくる。
気球って、この時代にもうあったのか
気球に乗った男が村に流されてきて、気を失って病院に運ばれた。気球ってこの時代にもう既にあったんですか? 誰がいつ作ったのか、何のために。
ありました。しかも目新しい発明ではありません。1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟が熱気球の有人飛行に成功しています。この作品の舞台は1840年代なので、60年近く前の出来事です。
同じ1783年に、シャルルという物理学者が水素気球も飛ばしました。こちらのほうが高く長く飛べるので、以降は主流になります。
思ったより古い。何のために作ったんだろう。
最初は「空を飛べるか」という挑戦です。ただ用途はすぐ見つかりました。
軍事偵察——フランス革命戦争(1794年)で実戦投入されています。高いところから敵陣を見るという発想は分かりやすい。
科学観測——上空の気温や気圧を測る。当時これ以外に上空へ行く手段がありませんでした。
そして1840年代アメリカで一番多かったのが見世物です。気球乗りは町から町へ渡り歩く興行師でした。広場で気球を膨らませ、人を集めて入場料を取る。作中の男も、おそらくこれでしょう。
でも「流されてきた」って、そんなに雑な乗り物なんですか。
むしろ実態に即した描写です。当時の気球には操縦装置がありません。高度は調節できても、水平方向は完全に風任せでした。
予定と違う場所に降りるのは日常茶飯事です。強風に遭えば何十キロも流される。気を失って発見されたというのも誇張ではありません。高高度は酸素が薄く、寒い。防寒装備も酸素供給もない時代です。
操縦できない乗り物で空に上がる。着地点が毎回違うことが前提の仕事だ。
そう考えると、あの男が初めての家でぐっすり眠っていたのも腑に落ちる。今夜の寝床がどこかを気にしていたら、この職業は続かない。図太さは性格ではなく、そういう生活をしてきた結果の適応なのだろう。
水を汲むのに、なぜあんなに走るのか
水を汲みに行くのに、家からだいぶ走らないといけないんだな。
各家庭に水道はまだありません。水源は共同井戸かポンプ、あるいは川で、距離があるのが普通でした。
そして水は重い。バケツ一杯で10キロ前後になります。それを往復する。
水汲みが子供の仕事だったのは、技術も判断も要らない純粋な力仕事だからです。トムの年齢の子が、日常的にやらされていた作業の代表格でした。
じゃあ塀のペンキ塗りも、そういう位置づけか。
その通りです。あのエピソードが成立するのは、そもそも子供に重労働が課されていたからです。
現代の感覚だと「お手伝い」ですが、当時は労働力としてカウントされていました。だから「代わりにやってくれる友達」が現実的な取引材料になる。
ちなみに水汲み場は、町中の人間が集まる場所でもあった。井戸端が情報交換の場になる。日本語の「井戸端会議」も、まったく同じ構造から来ている。
トムが水汲みで時間をかけて帰ってきたとしたら、それは怠けているとは限らない。誰かと話していたのかもしれない。
あの皿は、そんなに価値のあるものだったのか
おばさんが皿を大事に磨いて、数を数えているシーンがあった。先祖代々受け継いできた皿らしい。そんなに価値のあるものだったのか。
当時の陶磁器は本当に高価でした。理由は三つあります。
輸入品だった——良質な陶磁器はイギリスやヨーロッパから。アメリカ内陸部まで船と馬車で何ヶ月もかかります。
割れる——輸送中の破損率が高く、その分が価格に乗ります。
量産技術が未熟——まだ手作業の工程が多い時代です。
19世紀半ばの中流家庭にとって、揃いの食器一式は家財の上位に来る財産でした。今の感覚だと家具や車に近い。
数を数えていたのは、なぜだろう。
在庫確認です。つまり割れたり紛失したりすることを前提に管理している。数が減ることが起こりうる財産として扱っているわけです。
そして「先祖代々」という点。当時、土地も家も基本的に男性が相続しました。食器や布類は、母から娘へ受け継がれる数少ない「女性の財産」だったんです。
ポリーおばさんにとってあの皿は、母親から受け継ぎ、いずれメアリーに渡すものです。
ここで思い出したことがある。
『牧場の少女カトリ』を見ていたとき、刺繍やリネン類が婚礼調度品として、女性から女性へ受け継がれていくという話が出てきた。
フィンランドの農村と、アメリカの町。まったく違う場所で、女性が受け継ぐ財産の形が同じだった。手仕事の布と、食器。
そして、銀の燭台が持ち出される
この皿の場面には続きがある。子供たちが結託して、ポリーおばさんを騙すのだ。
目的は銀の燭台を持ち出すこと。ハックのために。
いたずらではない。家の財産を、外の人間のために動かしている。
しかも「みんなで」である。シッドは日頃から告げ口をする子で、メアリーは行儀のいい優等生だ。普段なら真っ先に止める側の二人が、隠す側に回っている。
家族全員が、ハックのために一線を越えたことになる。
そして、ここで皿の場面が効いてくる。あの家では家財の数が管理されていると、こちらはもう知っている。減れば気づく人だと知っている。だから「騙す」必要が生じる。
皿を磨いて数えるシーンは、この場面のための伏線だった。説明なしで、危険度だけを先に見せておいたことになる。
説明されないから、調べることになる
この作品は、何ひとつ解説しない。
「当時は水道がなかったので」とも、「この皿は貴重なものなのよ」とも言わない。気球が何であるかも語らない。ただ、走って水を汲む場面と、皿を数える手つきと、空から落ちてきた男が置かれているだけだ。
だからこちらが気になって、調べることになる。
そして調べた分だけ、その一場面が重くなる。皿の価値を知ってから見る「数える手つき」は、知らずに見たものとは別物である。
説明された物語は、一度理解したら終わる。説明されない物語は、調べるたびに厚くなっていく。
ひとつ気になっていることがあります。この作品は夏の話しかしません。ミズーリの冬は氷点下まで下がり、川が結氷することもあるのに、一度も描かれない。
ハックが冬をどう越しているのかは、最後まで語られないはずです。木の上や樽の中では、氷点下は越せません。
