礼を言われなかったことを、根性だと褒めた
命を助けたのに、礼を言われなかった。
普通なら、そこで不満が出る。少なくとも「変なやつだ」くらいは言う。
でもその子はこう言った。
「なかなか男らしい根性のあるやつだよ」
キザな優等生が、泳げなかった
『トム・ソーヤーの冒険』にアルフレッド・テンプルという少年が出てくる。都会から来た、身なりのいい、行儀のいい子だ。
主人公トムは、この子を毛嫌いしている。ベッキーに近づいたことへの嫉妬もあって、一方的に突っかかる。謝られても許さない。
正直に言うと、見ていて主人公のほうが分が悪い。アルフレッドは紳士的で、トムは身勝手だ。どっちが主人公なのか分からなくなる。
そのアルフレッドが、泳げなかった。
この町の子供なら誰でもできることである。川で育った子たちにとって、泳げないというのはかなり恥ずかしい部類に入る。上品な服を着て、正しい言葉遣いをして、大人に褒められる子に、できないことがあった。
そして、泳げるようになった直後に溺れた
練習して、泳げるようになる。
その直後、潜水で意識を失った。
これは順序として、極めて自然な事故だと思う。できるようになったから無理をしたのだ。 泳げなかった頃なら、そもそも潜らない。少しできるようになった段階が、いちばん危ない。
トムやハックのように川で育った子は、自分の限界を体で覚えている。何秒潜れるか、どこから流れが速いか。アルフレッドにはその蓄積がなかった。
技術は数日で身につくが、危険の感覚は数年かかる。
助けたのはトムだった
ずっといがみ合ってきた相手を、トムが助ける。
そしてアルフレッドは、一言も礼を言わなかった。
ベッキーがそれを指摘する。助けてもらったのに、お礼も言わないなんて、と。
トムの返事がこうだった。
「いや、でもなかなか男らしい根性のあるやつだよ」
何を褒めているのか
ここが、この回のすべてだと思う。
トムは、礼を言わなかったこと自体を評価している。
溺れて助けられるというのは、男の子にとって最も格好のつかない状況である。しかも助けたのは、自分をずっと目の敵にしてきた相手だ。
そこで頭を下げられなかった。悔しかったのだと思う。
トムは、その悔しさを正確に読み取っている。自分が礼を言われず、損をした側であるにもかかわらず、相手の心のほうを見ている。
朝と夜で、評価が裏返る
面白いのは、同じ二人の関係で、以前とまったく逆の構図になっていることだ。
以前は、アルフレッドが謝っているのにトムが許さなかった。見ていて「ちゃんと謝っているのに怒ってばかりで、めちゃくちゃな性格だ」と思った場面である。
今回は逆だ。礼を言われていないのに、トムのほうが相手を認めている。
同じ「謝罪と赦し」の構図で、立場が完全に入れ替わっている。しかも今回、器が大きいのはトムのほうだ。
嘘つきで、身勝手で、主人公失格だと思っていた少年の話である。
笑ってから、泣いた
助けられたアルフレッドが息を吹き返す。男の子たちが「よかったなあ」と言い合う。
そのときベッキーは笑顔になった。そして、そのあとで泣き出した。
順番が逆ではないかと思うかもしれないが、たぶんこれが正しい。
危機のさなかには泣けない。泣いている場合ではないからだ。終わって、大丈夫だと分かって、安全になってから怖さが追いついてくる。事故の直後より、家に帰ってからのほうが震える、というあの順序である。
そして、彼女が誰のために泣いているかを考えると、もう一つ見えてくる。
アルフレッドは彼女の恋人でも親友でもない。トムが目の敵にしている、都会から来たキザな少年だ。
その子のために泣いている。好きな子の恋敵のために、涙を流しているわけである。
誰のために泣くかを、選んでいない。
そしてこの涙が、このあと効いてくる。
ベッキーが見ていたもの
その言葉を聞いたベッキーが、こう言った。
「優しいから、好き」
思わず口から出てしまった、という言い方だった。
ここで大事なのは、彼女が助けた行為を褒めたのではないという点だ。
命を助けたというのは、勇気の話である。それを評価するなら「勇敢ね」になる。でも彼女が言ったのは「優しい」だった。
見ていたのは、水の中ではない。そのあとの言葉のほうだ。
礼を言わなかった相手を、それでも褒める。その一言に反応した。
この作品は、彼女に一度も気持ちを言わせてこなかった
思い返すと、ベッキーはずっと言葉にしてこなかった。
トムが授業中に黒板でメッセージを送っても、見向きもしなかった。汗だくのトムにハンカチを差し出し、返されると「汚れてもいいの」と言って顔に投げつけた。釣りに誘われれば、お茶会を捨ててついてきた。一張羅のまま川に入って、帽子でナマズを捕まえた。
全部、行動だった。
好きとも、気になるとも、一度も言っていない。押し返す、押しつける、ついてくる、川に入る。体で示すことしかしてこなかった。
それが今回、初めて言葉になった。しかも意図してではなく、漏れた。
言うつもりがなかったから、本物になる。 準備された告白より、うっかり出た一言のほうが強い。
そして、漏れた理由もはっきりしている。直前に泣いていたからだ。
友達が溺れて、助かって、張り詰めていたものが緩んで、涙が出た。感情の蓋が開いた状態でトムの言葉を聞いた。だから止まらなかった。
平常心だったら、たぶん飲み込んでいたと思う。あの子は、これまでずっと飲み込んできた子だから。
全部が連鎖している
この回の構造を並べると、こうなる。
- キザな優等生に、できないことがあった
- できるようになった直後、無理をして溺れた
- 敵対していた相手が助けた
- 助かったと分かって、見ていた子が泣いた
- 助けられた側は、礼を言えなかった
- 助けた側が、それを根性だと褒めた
- 涙で蓋が開いていた子から、気持ちが漏れた
どれか一つ欠けても、最後の一言は出ない。
アルフレッドが素直に礼を言っていたら、トムが褒める場面は生まれない。トムが不満を漏らしていたら、ベッキーは何も言わない。そして泣いていなければ、たぶん飲み込んでいた。
礼を言われなかったという「失敗」が、全部の起点になっている。
そして、誰も説明しない
ベッキーは「あなたのそういうところが好きなの」と分析してみせたわけではない。
ただ「優しいから好き」と言っただけだ。
なぜその一言が出たのか、彼女が何を見ていたのかは、一切説明されない。見ているこちらが、直前のトムの台詞と結びつけて理解するしかない。
いつも通りのやり方である。行動だけを置いて、意味は言わない。
そして今回は、その「言わない」を積み重ねてきた相手が、初めて言った。だから効く。
